――そう、あれは出来心。ほんの出来心だったので御座います。
 私は、現在巷を賑わせております件の「陰摩羅鬼の瑕」なるものを一目見ようと思い立ち、駅前にある書店へと足を向けたので御座います。
 書店へ入りまして、文庫、ノベルスコーナーへ赴くと、果たしてそこには御座いました。その佇まいは、悠然とし、まさしく王者の風格とも呼ぶべきでしょうか。私は、何列にも平積みされている中から一冊を手に取り、あらすじに目を追いますと、何ともこれは面白そうである、と感じたのですが、なにぶん「絡新婦の理」を今まさに読んでいるところであり、又、持ち合わせもありませんでしたので、後ろ髪を引かれる思いをしながら、本を元の場所へと戻したのでした。
 それからまだ、時間にも余裕があり、手持ち無沙汰になってしまいましたので、以前から興味のありました「ちくま文庫の『氷川瓏集』」も一目見てみよう、と店内をうろつきますと、隅の方にひっそりと、佇むように平積みされていました。
 どうやら、その書店にあるのは目の前の一冊しかないように思われましたので、早速手にとり、巻末の解説に目を遣りますと、そこには
――コノ作品集ノ全体ノ雰囲気ヲ知ルニハ、冒頭ノ「乳母車」ヲ読ムベシ――
とありましたので、目次を見てみると、なるほどたった3ページの短編のようです。これならば、雰囲気を掴めそうだと「乳母車」を立ち読みではありますが、読んでみることにしたのです。
――眩暈がしました。私の体を支えている足が本当に自分の足であるのか解らなくなりました。目の前に並ぶ本の背表紙に記された文字が、文字として認識できなくなりました。私は私のこの興奮とも感動ともわからない感情を表す語彙を持ち合わせていないことを深く残念に思います。
 私はハッとして現実世界に引き戻されると、すぐさまに財布を取り出し中身を何度も確認しながら、値段と財布の中身とを交互に睨めっこしたのですが、どう足掻いても購入するには足りないことを悟りますと、肩を落としながら書店を後にしたのでした。
 雑踏の中を悄然とした足取りで帰路につく中、ふと夜空を見上げますと、月も雲も見ることはできません。そこには原色のネオンサインが我が物顔でのさばっているばかりです。そして、夜の町が吐き出す雑音達が、私の胸にぽっかりと空いた穴を必死になって埋めよう、埋めようと、もがいているのでした。

注)解説はこんな感じではないですよ。