百円ライターで煙草に火をつけるとき、火力を誤って前髪を焼いてしまうことがあります。チリ、チリ……、とタンパク質の焦げる臭いというのは、どうしてあんなにも不快なのでしょうね。高名なるアンポンタン・ポカン教授の学説によると、細胞はそれひとつひとつが意思を持つ、とのことですが、焼かれて死滅し、細胞の群れから大気の大海原へと一人孤独に旅立つとき、彼は他の仲間たちに「俺のことを一生忘れないでくれよ」などと今生の別れを告げたりするものなのでしょうかね。
 と、そんなバカな物思いにふけっていると、どこからともなく髪を焦がした時のような不快な臭いが漂ってきました。パチ、パチ、と木片の弾けるような音も聞こえてきましたが、こんな夜更けにどこかで焚き火でもしている人がいるのでしょうか。臭いを辿って庭へと出てみると、母が一体どこから用意したものか、ドラム缶で何かを燃やしていたのです。
 「要らなくなったものを燃やしているのよ」
 燃え盛る炎の光で顔を橙色に染め、母が僅かに微笑むと、目尻と首筋に深く刻み込まれた沢山の皺が、その拍子に嫌にハッキリと目に焼き映ります。ドラム缶のそばへ臭いと煙に辟易しながら近寄ると、地面に灯油のポリタンクが2つ無造作に転がっており、黒い枯れ木のようなものが2本ばかり炎の中から満天の星空に向かって伸びているのが見えました。
 近所への迷惑を考えて注意をしようとも思っていたのですが、あまりの臭いと煙に耐え切れなくなって、家の中へと引き返そうとすると、何かおかしな事に気がつきました。これだけの臭いと煙を近所に撒き散らしているというのに、父の姿が一向に現われないのです。
 振り返ってみると、母は臭いも煙も気にならない様子で、いまだにドラム缶の炎と焼かれているものを悄然とした佇まいで見つめ続けています。その疲れきった横顔を呆然と見ながら、父とはここ一年、会話らしい会話を全くしていなかったことを、ふと思い出し、愕然とするのでした。
 遠くで鳴り響くサイレンの音を聞きながら、焦燥感にかられて臭いの中から何かを感じ取ろうとするのですが、当然、臭いが言葉を伝える筈もありません。母はただ、うつろな瞳でこちらを見つめています。